神話は誰が為に
本日、母の火葬が行われました。
25年弱共にした顔が、陶磁器のようになってしまったということは
頭では分かっていても心理的にはやはり受け入れがたいものです。
そこで死後の世界についても妄想してみたり。
思えば幼いころから、私は神話や宗教が好きでした。ギリシャ神話だったり、キリスト教だったりの逸話をよく読んだものです。
始めはわくわくするファンタジーとして楽しんでいましたが、似たような話を見るにつれ、神話や宗教の成り立ちに興味を持ちました。
地を伝って文化が伝播した。というのが定説ですが、
ただ祖が同じであっても、現代まで有名な話として残っているのは
人間が根源的に大切にしている価値観があるんじゃないかとか。
学術的でない私の空想ですが。笑
結論、わたしは神というのは生きる人のためのシステムだと思っています。
身近な人の死に直面し、さらにそう確信しました。
急な自然災害、世の理不尽、個人と共にあった感情や心が無に帰してしまうこと、
化学が発達しても気持ちの上で納得のいかないことはあるんだなと。
でも納得していくしかないんですよね。生きていくためには。
そういったものに納得のいく理屈を付けることは、前を向くためには必要不可欠です。
例えば死後の世界は、気持ちを投げ入れる箱を作ってくれる。
亡くなってから数日たち落ち着いた今でも、
ふと母から貰ったものや過去の写真を見るたびに湧き出る感情を遣る対象がいないことに混乱します。
人はつながりたい生き物です。
永遠に一方通行なのか、遠くてもいつか届くかで心の持ちようが良くなるんです。
また、自分のなかの後悔や罪悪感も和らげてくれます。
赦しをくれるから、とかではありません。
亡くなった人への後ろめたさを解消する機会をくれるんです。
母にガンの再発が分かってからの数年、悔いのないよう接してきたつもりでしたが
どうしても幾ばくかの後悔は残ってしまいました。
また生前に後悔なく接することができても、
亡くなった人の記憶が薄れていくことに罪悪感を覚えることもあるでしょう。
命日や盆の儀式は、過去の人に思いを遣る機会を宗教というシステムに組み込むことで、他の日常には前を向けるようにしてくれます。
最後に、うだうだ理屈っぽいことを書きましたが、私は神なんていない!と言うつもりはありません。
むしろいてほしいと願ってますし、式も心をこめて行うようにしています。
実際のところ存在していてもいなくても、信じること自体で生きている自分が救われますし
もし死んで本当にあったならラッキー!と、宝くじの当選を待つような気持ちで今後もいようと思います。